居酒屋

店内は酔っ払いでごった返していて、店員があっちにこっちにせわしなく動き回っている。 ほとんどの客が複数人で来店していて、中には8人以上の団体客もいるが、自分はおひとり様だ。 周りを見渡すとどの客も顔が赤らみ、友人や同僚と思しき人物と楽しく会話をしている。

少し離れた場所に陣取っている大学生の集団から、乾杯の音頭が上がった。 サークルのコンパかしら? ひときわ体の大きい、幹部風の男が生ビールのジョッキをぐいと喉に流し込み、それを見た隣の女がケラケラと笑っている。 ジョッキが空になると、拍手が挙がる。 皆楽しそうにしている。

自分はああいう大人数で盛り上がる雰囲気には慣れたことがない。 みんなで乾杯をするところまではいいが、少し時間が経っていくつかの「会話島」がなんとなく形成され始めると、そろそろついていけなくなる。 島ができるとだんだん会話がその島内で閉じるようになり、島の一員になり損ねるともう後からは割って入れなくなる。 会話を提供するとか、相手の言葉に対して何かうまいことでも言うとかできればいいのだけれど、面白い小噺ができるわけでもなく、ウィットに富んだ返答ができるわけでもなく、結局ただあいまいに相づちを打つだけになってしまう。

そもそも自分に魅力がないのだ。 なんとなくぼんやりとしていて、はっきりしないとよく言われる。 思い返してみると、幼少期からなんとなくで物事をやり過ごしてきた気がする。 面倒なことは大抵あいまいに返答して、どっちともとれるように逃げ道を作っていたように思う。 答えをぼやかして生きてきたので、なんだか立ち位置もぼやけていて、自分でも輪郭がはっきりしない。 だから色々なことが他人事のように感じてしまうのかしら?

集団の端の方で苦笑いしている男がいるのに気が付いた。 その男が参加している会話の主は大声で武勇伝を披露しているようで、すごーい!とかどうやったんですか?とかそういった類の合いの手が聞こえる。 端の男は笑いながら相づちを打ってはいるが、なんとなくリズムに乗れていないようだ。 気まずそうに手に持っているグラスに口をつけたり、つまみに手を伸ばしてみたりしている。 それを見て、きっと自分みたいな人間なんだろうと、なんとなくうれしくなった。

なんで自分は居酒屋まで来てひとり黙々と酒を飲んでいるのだろう? 友人と一緒に酒を飲む気力もないが、家で一人飲むのも気が狂いそうだったので、せめて騒がしい中でと居酒屋に来たんだった。 そういえばここ数ヶ月、友人と会っていない気がする。 最後に会ったのはいつかしらん? 人付き合いが根本的に面倒で、なあなあでやってきたおかげで友人と呼べる人物は自分には少ない。 数少ない友人とも最近は面倒で連絡を取っていない。

ああ一体、なんでこんなに面倒くさがりなんだろう? きっと逃げ癖がついていて、そして大して痛い目にあってこなかったから、いい気になって面倒なことをそのままにしてしまうんだろう。 小さな失敗はいくつもしてきたけど、そのたびにまあ仕方ないよねと諦めてしまい、悔しがることをしなかった。 人生に対して熱意が足りないのかしら? もっと真剣に物事に対して取り組んだ方がいいのかもしれない。

多分当事者意識が足りないのだ。 でも正直いろんなことがどうでもいいと思ってしまう。 もっと世界に目を向けなくてはいけない、そのためには世界に対して愛着を持たないといけない気がする。 いろんなどうでもいいことに愛を持つことが重要な気がする。 わかったぞ、気づいてしまった。 キリスト教なんて馬鹿馬鹿しいと思っていたけど、博愛精神というのは自分が世界に対して当事者意識を持つために必要なのかもしれない。 そう考えると宗教も捨てたもんじゃないぞ。 家に帰ったら、前に気を違えて買った聖書を読んでみよう。

ふとまたさっきの集団を見たら、端の男が隣の女と楽しそうに会話をしていた。 自分みたいなぼんやりとした人間だと勝手に思っていたが、彼は顔がはっきりと整っていることに今気づいた。 あっ、こいつめ。 おれと同類じゃなかったのか。

なんだか悔しくなって、レモンサワーを追加で注文して一気に飲み干した。 腹の虫が収まらないのでもう一杯飲んで、こんなところにいられるかと会計を済ませて店を出た。 駅前で募金の呼びかけに捕まりそうになったが無視して通り過ぎ、家に帰ってそのまま寝た。


自意識過剰な男の創作文章を書いてみました。