20250208

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最近しんどいと思うことが多い。 なんで? 多分今の生活が嫌になってきたからなんだろうと思われる。

別に以前と変わらない生活で、生活自体に特に不満はない。 不自由なく生活できているし、そこそこ不健康だけどそこそこ健康に過ごしている。 問題はうっすらとつらいなと思っている日々が、うっすらと続いているということだ。 変わらない日々は特に問題はないんだけど、いやな日々が変わらないのは、少ししんどい。 しんどさが堆積していき、気づいたらそれが自宅の玄関を埋めてしまうような気がする。


最近の自分の一週間はこうだ。 7日間のうち5日は、朝の9時に起きるが、猛烈に眠く、ベッドの中に戻りたくなる気持ちを死ぬ気で抑えて身支度をする。 そうして出勤をし、仕事をこなしつつ、『お前マジで使えない、無能だな』という事実をまざまざと心臓に突き立てられる。 胸からは血が流れて、貧血でくらくらして倒れそうになりつつ、無能の事実を受け止めて精進しますと返答する。 仕事は進まない。 ようやく金曜の夜が来ると安心する。 残りの2日は胸の傷を修復するために寝る、シーシャを吸いに行く、たまに酒を飲む…… そうこうするうちに2日間が終わり、またうっすらと不快な5日間が始まる。


咳き込みながら白煙を吐き出しつつ、本を読んでいる。 ブコウスキーの『死をポケットに入れて』を少し読んでいる。 ブコウスキーは強靭な人間で、ひ弱な自分が読んでもあまり参考にならない。 ブコウスキーは世の中の愚かな人間をうっすらと蔑んでいるような日記を書くが、自分は世の中の愚かな人間のうちの一人なので、自分を蔑むようなことはできない。 彼は競馬で頭を空っぽにできるが、自分が頭を空っぽにできることと言ったら、寝ること、このくらい。 このくらい?マジかよ。 シーシャを吸うときですら、考え事をしている(つまり今だ!)。 考え事といってもくだらない、考えても仕方がないようなもので、つまり今後どうやって仕事をしていくかとか、そういうこと。 なるようにしかならないのに。 隣に座っている人をチラと見てみると、実にうまそうに煙を吐き出している。 シーシャを吸って、吐き出す煙の量ですら、自分は他の人よりも少ない。 肺活量が小さいんだろう。 肺活量が小さく、つまり吸える酸素の量が少ないということは、根本的に生命力がなく、シナシナなんだろうと思う。 そりゃもう色々とシナシナになっている。

カフェインの力でも借りてビンビンにしよう、マスター、コーヒーもう一杯。 ここのシーシャバーのコーヒーはうまい、デロンギのコーヒーマシンを使っているからだ。 デロンギ製のコーヒーを立て続けに2杯飲んで、頭がビンビンになるかと思ったがふわふわしてきた。 若干頭痛もする。 一旦コーヒーを唇から遠ざけ、またシーシャを吸って、吐いて、本の続きを読んでいたが、段々ブコウスキーにムカついてきたので本を閉じた。 いや、愚かな人間でも別に生きてていいだろ。 勝手に生きてろ!


コーヒーがぬるくなっていた。 ぬるくなったコーヒーからは酸味が出てくる、あまり美味しくない。 シーシャも、炭替えした瞬間が一番うまく、煙も出るが、段々と炭の温度が下がっていくにつれて、味もしなくなってくるし、煙も薄くなっていく。 ものの美味しさというのは、大抵は出てきたばかりが一番うまい。 ただ出てきたばかりのものは熱く、火傷しそうになる。 その熱さに耐えきれなくて、ちょっと待ってしまうことがある。 シーシャも同じで、炭替えした直後は、煙が濃すぎて咳き込んでしまうことがある。 ちょっと待ってから吸うと喉に対してはちょうど良くなっているが、味がやっぱり薄くなっていたりする。

ぬるくて酸味が出てきたコーヒーを飲み干し、次はコーラを頼んだ。 コーラって要は砂糖水のソーダだけど、なんでこういう色になっているのか。 ちょっと調べてみると、カラメル色素を投入しているかららしい。 砂糖を熱すると、色が白から焦茶に変わる。

ここでも熱だ! ものの美味しさというのは、美味しくするためには、味わうには、熱さや苦しみが必要なんだろうか。 苦しいことは好きじゃない。 好きじゃないけど、きっと必要なんだろうな、熱さや苦しみなしで美味しさを味わえるほど、物事そんなに甘くない。

自分は弱い人間なので、そこそこの美味しさで良いなと思ってしまう。 最高の美味しさを味わうために苦しみを負いたくないし、口の中を火傷したいとも思わない。 そこそこの美味しさでいいので、苦しみたくない。 でも世間はそうはいかないもので、そこそこの美味しさを味わうためでも、我々のような愚かな人間は多大なる苦しみ、火傷を引き受けないといけないものだということは、わかっている。

自分の性質みたいなものが最近うっすらと、吐き出す白煙の如く見えてきた。 たぶんつらいことをやりたくないんだな。 動物は苦痛から真っ先に逃げる、苦痛から逃げないのは人間だけだ、みたいな言葉があった気がするが、自分はどちらかというと動物寄りなんだろう。 私は、スターリングラードからヴォルガ河に飛び込む犬に共感する。


最近はとにかく頭を空っぽにしたい気持ちがある。 頭の中にモヤがかっている苦しみをなんとかして吐き出そうとしているのかもしれない。 こうやって煙を吐いていると、一緒に苦しみが、少しだけ吐き出されている希ガス。気がする。 煙につらさを溶かして、口から吐き出す。 たまには酒で同じことをやる。 アルコールに苦しみを溶かして、小便と一緒に排出する。 もしくは嘔吐する。

アルコールも煙も頭を曇らせるが、煙は視覚的にも目の前を真っ白にしてくれるから好きだ。 数秒間だけだけど。 だからもう一回吸って、吐いて、目の前と頭の中を真っ白にする。 それを繰り返す。 死ぬまでにあと何回この繰り返しを動作するんだろうか。

繰り返しは好きだけど、そのままにすると温度は下がっていくし、いつかは腐る。 マコモ湯みたいなものだ。 気持ちいい風呂釜に入っていたら、いつの間にか冷水になっていて、水自体も汚れていった。 いつかはこの煙からもなにも感じなくなるんだろう。 そうなったら、水を取り替えて、熱する必要がある。

ここでも熱だ!


以前日常の小さな喜びをちゃんと認識しよう、と書いた気がする。 たまにそのことを思い出すと、明日は良かったことをちゃんとメモしてみようか、それでどのくらい日常に喜びがあるのか計測してみよう、とか思ったりもする。 「推測するな、計測せよ」という言葉はソフトウェアエンジニアリングの領域ではよく言われていることなので、ちゃんと喜びがあることを確認するのも大事だよなあとか考えたりするが、たいてい寝ると忘れてしまって次の一日を過ごすことになる。 あとこっちが本題なのだが、その日常の喜びの計測結果が推測より少なかったら? どんな顔して生きていけば良いんだろう。 コワすぎ。

喜びを増やせばいい、たしかにそうだ。 よっしゃ、喜びを増やす方法を考えよう。 自分の好きな法則に、アムダールの法則がある。 細かく言えば並列処理に関する法則なのだが、まあだいたいで言うと、その問題のボトルネックとなっている部分を速くすれば全体の処理も速くなるよね、みたいな感じの法則だ。 このアムダールの法則を援用(誤用)すれば、チマチマした喜びを積み重ねるよりも、ボトルネックとなっている問題を解決しない限り真に幸せになることはない、といったことがわかる……

気が滅入ってきたのでドライブにでも行ってこよう。